世界遺産 富岡製糸場
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富岡製糸場
明治5年(1872)に操業を開始し、昭和62年(1987)の操業停止まで115年にもわたり生糸を生産し続け、日本の絹産業を支えました。日本で最初の官営模範工場としての歴史的な価値、さらには明治5年当初の建造物がほぼ完全に残されていることなどから、2014年6月21日の第38回世界遺産委員会(ドーハ)で正式に世界遺産登録されました。
《富岡製糸場とは》
明治政府が揚げた二大国策「富国強兵・殖産興業」の一翼を担うべく、日本で最初の官営模範工場・富岡製糸場が誕生しました。機械製糸技術を全国に普及する目的のもと、フランス人ポール・ブリューナの指導により操業が開始され、日本の産業の近代化ならびに機械製糸工場の発展に大きく貢献しました。
《富岡製糸場関連》:富岡製糸場ホームページ
東繭倉庫
明治5年(1872)の建設。長さ104.4m、幅12.3m、高さ14.8m、二階建ての倉庫で、風通しの良い2階に繭を保管し、1階は事務所や繭取扱所として使用しました。造りは、木材で骨組みを組み、壁はレンガを積みいれる木骨レンガ造です。建物の重量は主に木骨にかかるため、フランドル積みのレンガの壁も保存状態が良好です。1階中央部のレンガ積みアーチには「明治五年」と刻字されたキーストーンが残されています。
検査人館(3号館)
明治6年(1873)建設、木骨レンガ造二階建て。主に糸検査や器械整備を担当したフランス人男性技術者の宿舎として建設されました。後に改修され、事務所や2階の一部は貴賓室として使用されました。
女工館(2号館)
明治6年(1873)器械製糸の技術指導のために雇われたフランス人女性教師の宿舎として建てられました。木骨レンガ造二階建てで、ベランダの天井には菱組みの装飾が残され、当時の洋風建築の特徴を見ることができます。
操糸場
明治5年(1872)の建設。長さ140.4m、幅12.3m、高さ12.1m。木骨レンガ造平屋建てで、採光のための多くのガラス窓や、屋根の上には蒸気抜きの越屋根が取り付けられました。屋根を支える構造は洋式のトラス工法で、建物内には柱のない大空間が広がります。当初はフランス式の繰糸器300釜が設置され、世界最大規模を誇りました。現在、建物の内部には昭和40年(1965)以降に設置された自動操糸機が残されています。
ブリューナ館
明治6年(1873)の建設。木骨レンガ造平屋建て、広さ320坪(1056㎡)。床が高く、ベランダやよろい戸が取り付けられた開放的で涼しい造りが特徴です。フランス人指導者ポール・ブリューナが、明治(1875)の契約満期まで家族と共に居住しました。その後建物内部は改造され、工女の夜学校や寄宿舎として使用されました。床下には、食料などの貯蔵庫として使ったと考えられるレンガ造りの地下室が残されています。
煙突
現在の煙突は昭和14年(1939)に建造されたものです。明治5年(1872)当初の煙突は、レンガ積みの基礎の上に、経1.3mの鉄の筒を高さ36mまで積み上げ、四方に鎖を張って支えていました。当初から高い煙突を造り、燃料である石炭の煙媒対策とするなど環境へも配慮していました。
西繭倉庫
明治5年(1872)の建設で、東繭倉庫と同様に2階に繭を保管しました。大きさもほぼ同じです。1階北半分は、当初は壁がない状態で石炭置き場として使われ、昭和50年代に現在のように整備されました。富岡製糸場の操業開始時には、養蚕は年に一度しか行われなかったため、一年間操業する分の繭を一遍に買い入れ貯えておかなければなりませんでした。そのため巨大な倉庫2棟が建設されました。
鉄水槽
※コース範囲外のため、見学不可。
明治8年(1875)頃の設置。丸桶形で直径約15m、深さ約2.1m、約400tもの水を溜めることができます。当初はレンガ積みの貯水槽が使われましたが、漏水したため、新しい貯水槽が造られました。それが現在残る鉄水槽です。国内の横浜製作所で製造された鉄板を運搬し、富岡製糸場内で組み立てました。造船技術を応用した構造上貴重なものです。当初、土台の石は2段積みでしたが、水圧を上げるため後に5段積みに改造されました。